1 ザハグランロッテ
1 ザハグランロッテ
ザハグランロッテ。それが彼女のファーストネームだ。
家名であるセカンドネームは、今や世間で凋落の代名詞として揶揄されるスカーバラ。
つまり彼女のフルネームは、ザハグランロッテ・スカーバラと言う。
聞こえてくる嘲笑に耳を澄ませば、かなりの確率でスカーバラ家の噂話だったと言えるほどに、その家名は落ちぶれていた。
もっとも、それは直近で没落しそうな最高峰の名家だからこそ、格好の娯楽として目立っているという側面もあった。
学内では、生徒個人の名声など基本的に有りはしないのが普通だ。
そこで最も序列の判断材料になるのは、どこまでも「家柄」だった。
スカーバラの家名は、序列で言えばギリギリではあるが、最上位クラスに位置する。
かつては羨望の的だった名家が、今や最も嘲笑される家名まで落ちているという残酷なギャップが、彼女の学内での立ち位置をひどく複雑なものにしていた。
一度一般化してしまった嘲笑の空気の中では、たとえそれが本心からスカーバラ家を立てた言葉だったとしても、すべて慇懃無礼な皮肉にしか聞こえないし、見えない。
彼女が難しいのは、スカーバラ家だからという事だけではない。
彼女本人も、自身の立ち位置をどこに置くか、内心でいつも困惑していたのだ。
その立ち位置の難しさから、当時の彼女には親しい友人もいなければ、寄り添い頼りになる教師もいなかった。
それは彼女自身に問題があるわけではない。
ただ、圧倒的に運が悪かったのだ。
そのような過酷な環境の中で生活する彼女の心中など、押して知るべしというものだ。
当の本人は、自身の周りで起こっている没落の事象に関わることすらできず、抗う術もない。
ただ流れるままに、その身を任せるしかなかった。
ややこしい事情を持つ、それも没落予定の彼女の周りに、わざわざ人が寄り付くはずもない。
つまり彼女は、学生時代を常に、ただ一人きりで過ごして終えた。
彼女の境遇は、彼女に自身の感情が他者に漏れるのを許さない…そういう類の縛りを持ち、そして無意識に彼女の自由を奪っていった。
弱みを見せれば、すぐに周囲の群狼に食い尽くされる。
そんな縛りが無意識に彼女の自由を奪い、頑なな防衛本能を育てていった。
そこに出来上がったもの。
それこそが……誰にも頼らず、誰にも媚びず、誰にも心を許さず、誰にも感情を読ませない、能面のような澄まし顔を貼りつけるザハグランロッテ・スカーバラという人間だ。
さらに彼女は、横の繋がりからも縦の繋がりからも、意識的に距離を取るようになった。
そうすることでしか、自身の立ち位置を他人に左右されず確保する術を、彼女は身に付けられなかったのだ。
そのようにして身に付けた護身術は、彼女の扱い難さを一層際立たせたが、一方で、他者からのくだらない侮辱や嘲笑を目の前から遠ざけてくれる、そんな最強の盾として機能した。
しかし、他者との関わりを完全に防ぐことなどできない。
あの日、彼女は自身の不手際から、同じ学府に通う女子生徒の服を汚してしまった。
「きゃぁっ!?」
昼食を取ろうと彼女が食事を運んでいた、その時だった。
床にあった何かに躓き、体勢を崩した拍子に、お椀からトマトスープが激しく跳ね上がったのだ。
真っ赤なスープは運悪く、前にいた女子生徒の背後へと飛び散った。
大半が女子生徒の服にかかり、数滴がその顔にも飛ぶ。
不意に襲い掛かった熱さと衝撃に、女子生徒は思ったよりも酷く驚いてしまったようだった。
……これは……困ったわね……。
そう思った彼女は、すぐさま先手を取って事務的な謝罪を口にした。
「ごめんなさい。怪我はないかしら?服は後日、新しい物を用意して届けさせるわ」
謝罪、相手への最低限の心配り、被害物への補償の提示。
それらを簡潔、完璧、迅速に相手に伝えたが、彼女の謝罪には、決定的なものが足りていなかった。
「申し訳ない」という、気持ちを込めた演技(ポーズ)である。
当然、感情論で動く女子生徒が、そんな態度で納得するはずもなかった。
「何よその態度は!全く悪いと思っていないじゃない!!」
女子生徒のヒステリックな大声によって、食堂の関心が一気に二人に集まった。
……やれやれ。面倒くさい相手に捕まったわね……。
感情的な女子生徒を前にして、ザハグランロッテは物凄く面倒なことになったと内心でため息をついていた。
彼女の論理において、最初の謝罪に何一つ落ち度はないはずだった。
けれど、感情だけで物事を判断する相手に、どれほど精緻な理屈を並べたところで通用などするはずもない。
「私の態度が気に入らないのなら、それも謝るわ。悪かったわね」
それでも彼女は、絶対に媚びない。
ただ淡々と、冷徹な仮面のまま追加の謝罪を繰り返すだけだ。
謝罪はする。しかしそれは、これ以上の不利益を被らないための、どこまでも事務的な手続きとしての謝罪に過ぎなかった。
誰かに頭を下げ、媚びてまで許しを乞うつもりなど毛頭ない。
それを実現するために、彼女の他者と接する言動は、常に対等よりも少し上……「自身が相手よりも少し高い位置」からのものになる。
それは、彼女がこの過酷な学内で平穏に過ごすため、決して譲ることのできない絶対的な防衛線だった。
しかし、こういう張り詰めた場面において、その態度は周囲の目にあまりにも高飛車に映る。
形式的とはいえ、問題ないはずの謝罪が、侮辱として相手に伝わってしまう。
不本意ではあるが、自身を守るためにはこれ以外の方法を取ることができない。
ままならない現実に、彼女の胸の奥はもどかしい悔しさでじわりと痛む。
……このまま、相手が根負けするのを待つしかないわね。
そう想いを定めながら、彼女は凛として立つ。
必要な補償の提示はすでに済ませている。
ならば、これ以上のポーズは相手への卑屈な「媚び」でしかないのだ。
「ちょっと!貴方のせいで私の服が汚れたって言ってるのよ!?それが謝ってる態度なの!?」
女子生徒は自分の上着を持ち上げながら、染みのついた部分を指差して執拗に抗議を続けていた。
「私も、ザハグランロッテさんの態度は良くないと思うわ……」
怒っている女子生徒の周りにいた友人たちが、待ってましたと言わんばかりに一緒になって非難の声を浴びせ始める。
食堂の空気は露骨なほど相手の女子生徒たちに同情的で、その一方的な偏見は、彼女の心を酷く孤独に締め付けた。
無関係な者たちにまで集団で品定めされ、いたぶられるように批判される中で、彼女は自身の……いや、スカーバラの家名がどれほど安っぽく見くびられているかを、嫌というほど実感させられていた。
もしもスカーバラ家が没落していなければ、最初の迅速な謝罪だけで相手は恐縮して受け入れただろう。
それどころか、名家からの寛大な配慮として好意的に解釈した可能性すら高い。
相手の背後にある力関係だけを見て、手のひらを返すように態度を変える人間は、この街には存外に多かった。
……感情論で動く人間は、これだから。
達観した彼女は、目の前の女子生徒たちの評価を脳内で冷酷に切り捨てていく。
とはいえ、ここで黙っていれば、相手は自分が「正義」だと勘違いして増長するだろう。
ならば自分は、あくまで理知的に、冷徹に対応し続けるまでだと覚悟を決めた。
「私の落ち度で貴方の服を汚したのは確かよ。悪かったわね。服は新しい物を用意して送らせるわ」
感情のいっさい籠もらない口調で、彼女は三度、同じ謝罪を繰り返した。
客観的に判断して、それが反省している人間の態度には見えないことは、彼女自身も痛いほど自覚していた。
今の謝罪は、己の胸に渦巻く怒りと悔しさを殺し切れず、ただ事実とその対応をロボットのように口にしているだけなのだから。
それでも公平に見れば、スカーバラ家の落ち目を傘に着て、謝罪を受け入れない女子生徒の方が、明らかに執拗な言い掛かりを付けている。
この食堂のどこかに、背景を深読みして自分の孤高な態度に共感し、味方をしてくれる者が一人くらいはいるのではないか……彼女は心のどこかで、そんな淡い期待を抱いていた。
「ねぇ、そろそろ終わりにしようよ」
その時、外野から突然、間の抜けた声が聞こえた。
温和な雰囲気と笑顔をこれ見よがしに貼り付けて、こちらの争いに首を突っ込んできた男を、彼女は冷ややかな目で品定めする。
「ローレンさん……」
トマトスープをかけてしまった相手の女子生徒が、少し嫌そうな顔をしてその名前を呟いた。
しかし、その嫌悪はローレン個人に向けられたものではないようだった。
「私は、ザハグランロッテさんがちゃんと謝ってくれれば、それで良いのです」
男に向かって、女子生徒は自分の正当性を主張した。その様子を見て、彼女の心に冷たい不快感が走る。
……この女……私のさっきからの謝罪は、完全に無視か。
「それは見ていたから理解しているよ。ごめんね、自然と目に入っちゃったからさ」
ニコニコしながら、男はわざとらしく申し訳なさそうなジェスチャーをしてみせた。
そして、そのままザハグランロッテの方を向くと、信じられない言葉を口にした。
「僕も一緒に謝るからさ、仲直りしようよ」
「貴方には関係無いことよ」
一瞬で、虫唾が走るほどの嫌悪感が胸を満たした。
怒りを辛うじて抑え込みながら、彼女はローレンの言葉をスパッと一蹴した。
このお節介な男は、最初から「私だけが100%悪い」と決めつけて、哀れな被害者を救うヒーローの顔をしている。
そんな不条理、到底認められるわけがなかった。
「うーん。こんな時なら多少は耳を傾けてくれると思ったんだけど……。不本意かも知れないけれど、仲直りする為だと思ってさ」
……この男は私に……あの卑屈な群れに向かって、床に這いつくばって媚びを売れと言っているのだ。
認められない。この男は、私のプライドを土足で踏みにじる明確な「敵」だ……。
そう確信した瞬間、彼女は、胸の奥で激しく燃えていた怒りという感情が急速に凍っていくのを感じた。
……周りは全員、敵だ。
名家の没落を楽しそうに見物する有象無象も、数に任せて吠えるだけの女たちも、正義の味方面して平気で尊厳を削ってくるこの男も、すべてが敵。
……それなら、受けて立つしかないわね……。
彼女の誇りが、完全に戦闘モードへと切り替わった。
「仲直り?仲を取り持つつもりかしら。それなら尚更必要無いわ。そもそも、取りなす仲など最初から無いのだから」
場の空気が、さらに爪を立てるように冷ややかになっていく。
自分がこの学内で完全に「冷酷な悪役」になるのを百も承知で、極上の皮肉を言い放ってやった。
「ちょっ……」
自分の放った言葉で、先ほどまで余裕ぶっていた男が目に見えて慌てる様子を見て、彼女の胸のつかえは少しだけ下りた。
……ふん、無様ね。無関係な奴が、無責任な偽善でしゃしゃり出るからこうなるのよ……。
「だから!貴方がきちんと謝ればいいだけでしょう!!」
今の言葉は男へ向けた拒絶であり、女子生徒を相手にしたつもりは微塵も無かったのだが、当の女子生徒は自分への侮辱と思い込み、さらに怒りを募らせて叫んでいた。
そのあまりのヒステリーさは想定外ではあった……が、もはやどうでもいいと思えた。男のお節介を完膚なきまでに拒絶できた、それだけで十分だった。
……この女も、数の暴力を傘に着て、調子に乗りすぎなのよ。
周囲の人間も、彼女のあまりの攻撃的な姿勢に、引き攣ったように静まり返っている。
ヒソヒソと彼女を非難する陰湿な声が遠巻きに聞こえてくるが、表立って正面から敵対してくる人間は一人もいない。
それこそが彼女の求める「距離」であり、この孤立無援の戦いにおける、彼女なりの『勝利』でもあった。
ローレンと呼ばれた男が、自分の作戦を台無しにされて困惑しているのも最高に小気味よかった。
事はもう、綺麗に収まりそうにない。
それならいっそ、この最悪な状況を逆手に取って、他者との距離を完全に切り離すための「壁」として利用してやろうかと考えていた。
その時だった。
『ガンッ!!』
突然、食堂が爆発したかのような暴力的な音で、空気が激しく震えた。
一瞬だけ胸が跳ねたが、彼女はすぐに平静を装い、能面のような澄まし顔のまま音のした方向へ視線を向けた。
……新しい対立者なら、少し厄介ね。
見れば、木製の椅子が食堂の端へと無残に転がっている。
恐らく、その近くで怒りの形相を浮かべている男がやったのだろう。
名家の没落に対する陰湿な非難には耐性のある彼女だったが、こうした剥き出しの直接的な暴力に対する免疫は極めて低い。
……この暴力的な男の相手は遠慮したいわね。
内心の焦りを完璧に覆い隠しながら、彼女は冷徹に状況を観察するという逃避に逃げた。
「お前らうるっせぇんだよ!」
地を這うような男の怒声。その凶暴な威圧感は、今にもこの場にいる全員へ殴りかかってきそうなほどだった。
……こ、これは予想外ね。
今は自分に向けて非難が集まっている最悪の流れだ。
この男もまた、自分を標的にして責め立てるに違いない……そう覚悟し、どう身をかわすべきか脳内で高速に思考を巡らせる。
しかし、よく見ると男の視線は自分から少し逸れているような気がした。
男が鋭く睨みつけているのは……あの、お節介なローレンという男の方だった。
「人が静かに食べたいと思ってりゃ、ピーチクパーチク大声で囀りやがって!」
「あ、貴方には関係ないでしょう!!」
ザハグランロッテに怒鳴り散らしていた女子生徒が、乱暴な男に怯まず言い返した。
「それに!あ、貴方の方がうるさいじゃない!!」
「そ、そうです。貴方の方が静かにしてください」
「椅子を投げるなんて……」
「野蛮な人は黙っていればいいんです!」
一人が声を上げたことで弾みがついたのか、女子生徒とその友人たちが一斉に男へと非難の声を浴びせ始めた。仲間がいるという全能感が、彼女たちの恐怖を麻痺させているのだろう。
ザハグランロッテは、自分が完全にその場の中心から置き去りにされたことを利用し、深く息を吐いて落ち着きを取り戻すことに成功した。
「うるせぇ!!そんな事はどうでも良いんだよ!!」
対する男は、女子生徒たちのヒステリックな批難を容赦ない恫喝で叩き潰し、続けて凄まじい勢いで謝罪を求め出した。
「おら!お前らのせいでこっちは不愉快な思いをしたんだ!謝罪しろよ!!」
傍目にはあまりにも理不尽で、自分勝手な謝罪要求にも見えた。
しかし、ザハグランロッテはそれを単なる暴論とは決めつけなかった。
『正当性は人の数だけある。物事の表面だけで善悪を測ってはならない』……それは、かつて父から厳しく教え込まれた名家としての帝王学だった。
何より、この昼時の食堂で騒ぎを大きくしてしまった原因の一端は、スープをこぼした自分にある。
それについては、毅然と非を認めて謝罪をすべきだろう。また周囲から何を言われようとも。
「すまなかったわね」
彼女は冷ややかな声でそう告げると、チラリと壁の時計を確認し、続いて男のテーブルへと視線を落とした。
「そこの、まともに食べられなかった分の費用は私が出すわ」
周囲の見物人たちから「アレで謝罪のつもり?」「本当に高飛車な女ね」と陰口が聞こえてくる。
この凶暴な男も、どうせ「謝罪の態度がなっていない」と激昂するだろう。彼女はそう身構えていた。
しかし、男はザハグランロッテをただ一瞥しただけで、すぐに視線を女子生徒たちの側へと戻した。
……文句を言ってこない?……変わった奴ね。普通なら、私のこの態度を格好の標的にするはずなのに……。
男はザハグランロッテの簡潔な謝罪と補償をそのまま受け流し、ひたすら女子生徒を蛇のような目で睨みつけている。
その圧倒的な圧力に耐えかね、女子生徒は涙目になりながら嫌々と謝罪を口にし始めた。
「な、何よ!謝れば良いんでしょ!悪かったわよ、うるさかったのは事実ですもの!」
その瞬間だった。
男の隣にあった椅子が、今度こそ完全に宙を舞った。
凄まじい破壊音を立てながら、椅子が食堂の端まで吹き飛んでいく。
理不尽なまでの暴力の残響に、ザハグランロッテの身体はビクリと反応し、心が恐怖で竦みそうになった。
……なんて乱暴な男なの!?
「あぁ……?てめぇはそれじゃ駄目だろうが!?」
ハウルと呼ばれた男の、全域を圧する凶暴な雰囲気に、周囲の見物人も完全に呑まれて身動きが取れなくなっている。
「偉そうに気持ちが篭ってないだの何だのほざいてただろうが……あぁ!?お前の今の謝罪の、一体どこに『悪かった』って気持ちが入ってんだよ……!」
その言葉を聞いた瞬間、ザハグランロッテはハッと目を見開いた。
この男は……驚くほど、中立的に物事を判断している。
数に物を言わせて相手をいたぶっていた連中の「矛盾」を、完璧に突いているのだ。
つまりこの男は、名家の没落を傘に着て自分をリンチしようとしていた有象無象の「味方」ではなく、明確に彼らの欺瞞を叩き潰す存在だった。
そう気付けば、先ほど自分の事務的な謝罪に何一つ難癖を付けてこなかったことにも、納得がいく。
「やり過ぎだハウル!それに、暴力で相手を思い通りにしようとするのは絶対に違うだろ!?」
暴力的な男……名はハウルと言うらしい。
そのハウルを制止しようと、あのローレンと呼ばれたお節介男が正義の味方面をして前に躍り出た。
「あぁ?お前がそれを言ってんのか?頭沸いてんのかよ……!」
ハウルはドスの効いた声で、ローレンの決定的な矛盾を責め立てる。
しかしローレンは、自分の独善的なお節介の何が悪いのか、思い当たるフシが全く無いのだろう。
首を傾げたまま、不思議そうな顔を浮かべている。
「お前はそこの女どもに味方して、集団の……『数の暴力』を振るって、相手を思い通りに動かそうとしてただろうが!だからてめぇはクズなんだよ!!」
ハウルにその本質を痛烈に突き付けられ、ローレンの顔が凍りつく。しかし、ハウルが近くの椅子を掴み上げたのを見て、彼は慌てて叫んだ。
「あ?ダメだ!みんな逃げて!!」
ローレンが盾となって構えると、女子生徒たちは悲鳴を上げながら出入り口へと殺到した。
「こいつは僕が抑えるから!早く行って!!」
実際に、かなりの質量を持った椅子が凄まじい勢いで投げつけられ、ローレンの身体に激突する。
女子生徒たちは蜘蛛の子を散らすように食堂から逃げ去っていった。
ザハグランロッテは、その光景をただ静かに見つめながら……胸の奥に澱んでいたドス黒いモヤモヤが、スッと綺麗に消え去っていくのを感じていた。
……無様ね。
数に任せて調子に乗っていた女たちも、正義のヒーローを気取って自分の尊厳を削ろうとした男も、すべてが物理的な暴力によって完膚なきまでに叩き潰されたのだ。
これほど小気味よいことはなかった。
「ほら!も、もういいだろ!?ハウル、落ち着けよ!ま、待っ……!」
椅子を投げ終えたハウルは、肩を大きく怒らせたままズカズカと歩み寄り、進路を塞ぐローレンの顔面を思い切り殴り飛ばした。
ローレンの身体が派手に床を転がる。
「クズが……」
床に倒れ込んだローレンを見下ろし、少しだけ虫の居所が収まったのか、ハウルは荒れ果てた食堂を黙って見渡した。
そうこうしているうちに、休憩時間の終わりを告げる、重々しい鐘の音が食堂に響き渡った。
ザハグランロッテは我に返ると、自身の役割を思い出した。
「あの食事なら銅貨10枚ね……ここに置いておくわ」
近くのテーブルに澄ました顔で銅貨を滑らせると、彼女はそのままの足取りで食堂から退出した。
ハウルに助けられた形になったのは確かだ。
しかし、これ以上の面倒事からは徹底して距離を置くことこそが、孤立無援の彼女が身につけた絶対の処世術だった。
若干、逃げるような速度で食堂を離れながら、ザハグランロッテは小さく息を吐く。
……感情を別にして、客観的に物事を判断する人間ばかりなら……自分も、もっと柔らかな立ち振る舞いができるのに……。
そんなままならない仮定を脳裏に浮かべたが、すぐに打ち消した。
現実の世界は冷酷だ。世間はすでに、スカーバラの家名を「没落間近」……いや、「すでに没落した哀れな元貴族」としてレッテルを貼り終えている。
向けられる視線は、どれも自分を「目下」として見下し、引きずり下ろそうとするものばかり。
彼女はそれに抗うために、能面のような冷たい仮面を貼り付けるしかなかった。
他者に媚びることも、誰かに無様に助けを求めることも、彼女のプライドが絶対に許さなかったのだ。
食堂を出たものの、ザハグランロッテは午後の授業を受ける気には到底なれず、あてもなく静かな庭園へと足を向けていた。
……あぁ……本当に、面倒臭いわね……。
気に入らないのなら、お互いに関わらなければいいだけのはずだ。
没落目前の実家が原因で、自分が陰湿なゴシップ遊びの対象として消費されている現実は今さら変えようがない。
そもそもこの『地の街』は、他人の不幸を陰湿に楽しむ土地柄なのだ。
とりわけ貴族という人種は、他人の粗を探して回り、特等席から引きずり下ろすことこそを至上の娯楽と考える輩があまりにも多すぎる。
それは彼らの血に代々受け継がれる悪癖であり、落ちぶれていく無様な道化が「自分以外」でありさえすれば、誰もが自然と頬を緩ませる……それが、多くの貴族が持つ醜い本質だった。
……貴族なんて……本当に、ウンザリするわね。
中庭へと差し掛かった廊下を歩きながら、彼女は誰にも気づかれないよう、キョロキョロと辺りに視線を走らせた。
……今日も、あそこに居るかしら。
静まり返った庭園の緑をかき分けるように進み、中央に設置されている古びたベンチを目指す。
生い茂る木々の隙間から、目的の影を捉えた。
……居るわね。
彼女は張り詰めていた肩の力をほんの少しだけ緩め、ベンチに向かいながら、あえていつもの少し蔑んだような、ツンとした声で話しかけた。
「毎日ご苦労なことね」
名家のお嬢様らしい高飛車な物言い。
しかし、この程度の冷たい言葉では、目の前の相手が微塵も怒らないことを彼女はよく知っていた。
「これは、スカーバラ嬢。ちょうど良かった、今から休憩しようと思ってたんですよ」
やや軽薄な響きを持った男が、どこまでも気安い口調で彼女の言葉に応えた。
「今日は甘いマフィンを持ってきてるんで、砂糖無しのコーヒーが合うと思いますよ」
「そう。ちょうどお昼を食べ損ねてしまったから、有難く頂こうかしら」
男の言葉に促され、ザハグランロッテは先ほどの食堂でのトラブルを思い出し、胸に燻っていた怒りよりも、今さらになって強烈な空腹感を思い出した。
「そうですか、お昼を……」
男はそう言いながら、手際よくコーヒーを淹れ始めた。その合間に素早くマフィンを取り出し、彼女が腰掛けるためのベンチに、汚れ一つない綺麗な布をさっと敷く。
……相変わらず、無駄にマメな男ね。
手慣れた男の様子を観察しながら、彼女は静かに腰を下ろした。
この男は、この学園の雇われ庭師として働いている。
当然、学内に流れる彼女の悪評も耳にしているだろうし、目の前にいる自分が「最も嘲笑されている没落令嬢」だということも知っているはずだった。
にもかかわらず、男は貴族特有の歪んだ序列や権力にはいっさいの興味がないようで、くだらないゴシップに踊らされる様子もまったくなく、常に自然体で彼女に接していた。
その打算のない距離感が、今の彼女にとってはひどく心地よかった。
だからこそ、学内で嫌な思いをして心がすり減ったとき、彼女の足は無意識にこの場所へと向かってしまうのだ。
この過酷な学園の中で、唯一、仮面を脱ぎ捨ててボーッと息を抜くことができる。
彼女は、この誰も来ない静かな場所が好きだった。
それに、この庭師は生徒たちから身分が低いと嫌われているのか、他の貴族の生徒が近づこうとしない。
それも、他者との距離を置きたい彼女にとっては、最高に都合が良かった。
「あら……本当に甘いわね」
物想いに耽りながら、手渡されたマフィンを小さく口に含んだ。
その広がる味わいに、彼女は思わず舌鼓を打つ。
「でしょう。その強烈な甘さを、この苦いコーヒーで洗い流すんですよ。うん、良い香りだ」
マフィンを静かに齧りながら、ザハグランロッテはその温かい甘さと美味しさに……能面のような厳しい顔ではなく、胸の奥の「心」をほころばせていた。
「これも、貴方が自分で?」
これまでもこの庭師の男から色々なものを貰ったが、彼はすべて自分で作ったと言っていた。
この職人顔負けの見事なマフィンも、そうなのだろうかと気になったのだ。
「ええ、そうですよ。売ってる物だと、どうしても自分の好みの味と僅かにズレが出ますからね」
……本当にね。
彼女は心の中で深く同意した。
今までにこの男から貰ったお菓子は、どれも驚くほど彼女の好みのストライクゾーンに合致するものばかりだった。
この身分違いの男と自分は、こと「食の感性」においては余程気が合うのだろう。
「そうそう、お昼を食べ損ねたのなら、コレを持って行ってください。焼いた木の実で栄養価が高いですから……小さいし、ちょっとした合間に口に放り込めば、家に帰るまでお腹も持つでしょう」
そう言って男から手渡された小さな袋には、しっかりとローストされた、いかにも香ばしそうな木の実が詰まっていた。
彼女はその中から一つを指先で摘むと、口に入れてコリリと噛み砕いた。
香ばしい歯ごたえとともに、絶妙な塩加減の味付けが広がる。
……美味しいわね。
「ありがとう。貰っておくわね」
「いえいえ、一日中仕事をしてるだけだと退屈なのでね。いつもこうして話し相手になってくれて助かってますよ。他の方たちは、こんな泥臭い庭師に近付こうともしませんから」
「さあ、そろそろ戻ろうかしら。次の授業は出た方がいいでしょうし」
男の自虐めいた言葉をあえて綺麗に無視して、ザハグランロッテはスッと立ち上がり、その場を後にした。
しかし、その足取りは食堂を出たときよりも遥かに軽かった。
この過酷な一日の終わりに、あの香ばしい木の実を貰えたのは、正直かなりの幸運だ。
お守りのように小袋を握りしめ、ひと粒をまた口に放り込みながら、ザハグランロッテは当面の空腹を気にしなくても良くなった小さな幸せを、澄まし顔の下に忍ばせた。
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