2 自分を形作るもの……③
2 自分を形作るもの……③
5月頃
そんなとき不意に、その不快な音を掻き消すように、前方の風上からくぐもった男の声が吹き込んできた。
……また何かあったのだろうか?
だが、まだ何も確認していない段階から、すべての事象を不幸だと決めつけてしまった自分自身の心の狭さに、ザハグランロッテはひどく嫌気がさした。
「……に、……物……だ。数……ない……だろ……」
はっきりと聞き取れない、地を這うような低い音。
……ん?……外が騒がしい?
瞬間、肌の産毛が逆立つような明確な悪寒があった。
言葉では上手く言い表せない、ねっとりとした不穏な空気が、開いた布幕の隙間から荷台の奥へと流れ込んでくる。
……何か、臭うわね。
獣の体臭とも、腐敗臭ともつかない異臭。
ザハグランロッテはたまらず、埃っぽい布幕を押し上げて馬車の荷台から顔を覗かせた。
視界に飛び込んできたのは、前方で馬を寄せ合っているローズたちの姿だった。
手綱を握る指先が強張っているように見える。
ああでもないこうでもないと険しい表情で口を動かしているのも良い雰囲気とは言い難い。
風に乗って鼓膜をかすめる、断片的な単語をザハグランロッテは辛抱強くより集め、それらを脳内で繋ぎ合わせる。……その結果弾き出されたのは、この先に危険な魔物が潜んでいるという良くない結論だった。
互いに言葉をぶつけ合っているということは、おそらくまだ、どう対処すべきか行動を決めあぐねているのだろう。
すぐそこにトラブルが迫っているというのに、進みながら議論を続けているのは、この馬車があまりにも遅く、危機感が狂って焦りを感じ難いからかもしれない。
……浅はかね。
じわりと手のひらに嫌な汗がにじむ。
彼女の鋭い防衛本能は『今すぐ!』全てを投げ出して引き返すべきだと強烈に訴えかけていた。
長年、完璧な距離感を保つことで自分を守ってきた彼女にとって、生存の主導権をこの鈍重な馬車と他人の判断に握られているという事実は、耐え難いほどの恐怖として心に圧し掛かった。
その、胸の奥から湧き上がる焦燥に、ザハグランロッテは小さく奥歯を噛み締める。
動悸を澄まし顔の下に覆い隠しながら、彼女は布幕を握る手に力を込め、議論の結果がどうなるのかを、ただじっと窺い続けるしかなかった。
そんな風に、不安から刺すような視線で睨みつけていた彼女に、ローズが気が付いた。
ローズは馬を翻して荷台へと近寄ると、前方の状況を簡潔に説明してくれた。
「この先に魔物がいるらしい。数は一体ということだが、油断はできないからね。いま、どうするか話し合っているところなんだ」
「まさか、このまま進むつもり?」
「数が一体なら問題ないはずだ。けど、確証がないからな。今は斥候を出して、正確な情報を探らせている」
「そう……」
押し黙るザハグランロッテの顔に、隠しきれない不安が表に出ていたのだろう。ローズは彼女を安心させるように、少しだけ声音を和らげて気を使った。
「……心配しなくても、貴女が危ない目に合わないよう、私たちがしっかり守るさ」
だが、その不用意な気遣いの言葉が、彼女のささくれ立った気持ちをかえって逆撫でした。
「無理をする必要は無いでしょう。私は、引き返したほうが良いと思うわ」
彼女は、どうせ言っても無駄だろうと内心では諦めながらも、自分の確信を冷たく伝えてみることにした。
「はぁ?それだとギルドの仕事をすっぽかす事になるぞ?」
まるでザハグランロッテの考えが見当違いでもあるかのようなローズの反応に、彼女は胸の内で思わず強い苛つきを覚える。
けれど、ここで感情的に揉めたり、はいそうですかと簡単に引き下がるのは、自分のプライドが許さなかった。
彼女はローズに対し、あえていつもの高圧的な態度で、もう少し強く出てみることにした。
「順番は間違えない事ね。ギルドの仕事より、無事でいる事が大前提でしょう」
「……ふむ……よし、それならそれを踏まえて相談してこよう」
険のある口調で提案したので激しい反発も覚悟したが、意外なことに、ローズは彼女の意見を正面から尊重してくれたようだった。
……やっぱり……落ち着いているわね。ランクCの冒険者か。私より、よほど大人ね……。
先程のピリピリとしたやり取りを思い返し、冷静さを取り戻したザハグランロッテは、自分の頑なで高圧的な対応に対して、微かな恥ずかしさを感じていた。
ローズたちが再び集まって話し合う間、馬車の中でやる事が無い彼女は、ぼーっと外の景色を眺めていた。
目の前には、鬱蒼とした森と険しい山々が広がっている。一見すると静かだが、この山や森の中には、人間の常識など通用しない数え切れない魔物や魔獣が潜んでいるのだ。
……冷静に考えたら、ここもやっぱり安全とは言えないじゃない。
「お嬢さん」
もの想いに耽っていた彼女は、不意にかけられた声にハッとして振り向いた。
気づけば、すぐそばまで馬を寄せたローズが戻ってきていた。
「私の名前は、ザハ・グランロッテよ」
特に深い意味は無かった。
ただ、危機感が温いと思っている相手が近づいてきたにも関わらず、気が抜けて気配にすら気付いていなかった……そう相手に思われるのが不愉快だったのだ。
お嬢さんと呼んだローズに不機嫌そうな訂正を求めてみたものの……自分で口にしておきながら、本来の家名すら名乗ることができない現在の境遇。
それが今の不自由な状況と相まって、ザハグランロッテの劣等感をこれでもかと激しく刺激した。
……自分で言って、自分が苛立つなんて……滑稽すぎるわね。
ザハグランロッテは苦い想いを唾と一緒に飲み込みながら、いつものように澄まし顔を貫いていた。
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